鎮海山城跡
ちんかいさんじょうあと-
鎮海山からの眺め
市史跡 鎮海山城跡
鎮海山城跡=三島村上水軍の総大将、村上武吉、元吉父子が天正13年9月(1585)豊臣秀吉に能島を追われ、小早川隆景領の竹原へ移り、鎮海山城を築き拠点とする。天正15年(1587)筑前名島へ移動し、その後豊前蓑島へ移る。
文禄元年(1592)長州大津郡へ移動。慶長2年(1597)竹原鎮海山城に帰る。慶長5年(1600)関ヶ原の戦には、水軍を率いて伊予三津ガ浜に出陣し、元吉は戦死、村上水軍は敗退して竹原に逃れ帰る。
慶長6年(1601)毛利氏の防長への移動に従って竹原を退去し、周防屋代島に移動するまでの約6年間の能島村上氏の拠点であった山城。
城郭は、市街地に突き出た小丘上にあり、かっては深い湾に突き出た岬にあったと考えられる。郭は標高88.1mの本丸を中心に約10段ほど北西に一列に並び、南西に海に突き出るような形で郭が張り出している。郭はいずれも削平した痕跡程度で明確ではない。
本丸には、石組みが約3m*4.5mあり、以前そこには城山神社がまつられていたと伝えられている。墓=城跡の北西に城主村上元吉の法篋印塔が1基と、その西側に戦死者の墓と考えられる五輪9基が並ぶ。
鎮海山城跡=三島村上水軍の総大将、村上武吉、元吉父子が天正13年9月(1585)豊臣秀吉に能島を追われ、小早川隆景領の竹原へ移り、鎮海山城を築き拠点とする。天正15年(1587)筑前名島へ移動し、その後豊前蓑島へ移る。
文禄元年(1592)長州大津郡へ移動。慶長2年(1597)竹原鎮海山城に帰る。慶長5年(1600)関ヶ原の戦には、水軍を率いて伊予三津ガ浜に出陣し、元吉は戦死、村上水軍は敗退して竹原に逃れ帰る。
慶長6年(1601)毛利氏の防長への移動に従って竹原を退去し、周防屋代島に移動するまでの約6年間の能島村上氏の拠点であった山城。
城郭は、市街地に突き出た小丘上にあり、かっては深い湾に突き出た岬にあったと考えられる。郭は標高88.1mの本丸を中心に約10段ほど北西に一列に並び、南西に海に突き出るような形で郭が張り出している。郭はいずれも削平した痕跡程度で明確ではない。
本丸には、石組みが約3m*4.5mあり、以前そこには城山神社がまつられていたと伝えられている。墓=城跡の北西に城主村上元吉の法篋印塔が1基と、その西側に戦死者の墓と考えられる五輪9基が並ぶ。
基本情報
住所 | 〒725-0023 広島県竹原市田ノ浦2丁目2−18 |
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アクセス | JR呉線から徒歩15分、登山口から山頂まで10分 道の駅たけはらから徒歩5分 |
駐車場 | 道の駅たけはら駐車場(48台) |